2025/05/22 22:56

唐辛子という革命 〜胡椒と間違えられたスパイスが辿った世界の旅路〜
1492年、クリストファー・コロンブスはスペイン女王イサベルの命を受け、「黄金の国ジパング」やインドへの新航路を求めて西へと航海を始めた。彼の航海の目的は、しばしば「新大陸の発見」というロマンチックな物語に包まれがちだが、実際にはきわめて現実的な理由に基づいていた。すなわち、金銀財宝の奪取、労働力(すなわち奴隷)の確保、そして胡椒をはじめとする高価な香辛料の入手である。
当時、ヨーロッパでは黒胡椒(Piper nigrum)の価値は金と同等ともされ、富裕層の間では胡椒を料理に使うだけでなく、通貨の代用としても用いられていた。だが胡椒は東南アジア、特にインドやインドネシアの特定地域にしか自生しておらず、イスラム商人とヴェネツィアの商人がその流通を独占していた。ヨーロッパの列強は、こうした「胡椒ロード」を回避し、直接的な香辛料ルートの開拓を切望していたのである。
コロンブスがたどり着いたのは、現在のカリブ海諸島だった。彼はこの地をインドと信じて疑わず、現地の先住民を「インディオ(インディアン)」と呼んだ。そして現地で見つけた、舌を刺すような辛味を持つ赤く小さな実に出会った。それが**唐辛子(Capsicum属)**である。コロンブスは、これを「インディアン・ペッパー」と呼び、胡椒の一種と誤認してスペインに持ち帰った。
この辛味のある植物は、旧大陸では見たことのない全く新しい作物だったが、その刺激的な味と容易な栽培性ゆえに急速に広がっていくことになる。コロンブスの第一回航海で唐辛子がヨーロッパにもたらされたのは1493年のこととされる。
この唐辛子は、スペインやポルトガルといった大航海時代の先進国の手によって、短期間でアフリカ、アジア、そして最終的には日本にまで伝播した。中でも伝播のキープレイヤーとなったのは、ポルトガルの宣教師や商人たちである。
1543年、ポルトガル人が種子島に漂着したことで日本とヨーロッパの交流が本格的に始まる。この年、日本には鉄砲が伝来し、同時にポルトガル人はキリスト教の布教活動を始めた。唐辛子が日本に伝えられたのも、この頃とされている。
記録に残る中で最も有名なエピソードは、1587年、キリシタン大名として知られる大友宗麟(おおとも・そうりん)がポルトガル人宣教師から唐辛子を献上されたというものである。宗麟は豊後国(現在の大分県)を治める戦国大名で、フランシスコ・ザビエルらの布教を保護した人物でもあった。献上された唐辛子は、彼のもとで薬草として、あるいは珍しい香辛料として用いられた可能性がある。
当時の日本の料理には、まだ強い辛味を持つ調味料はほとんど存在しておらず、味噌や醤油といった発酵調味料が中心だった。その中に突如として現れた唐辛子は、異文化の象徴でありながらも、薬効のある植物としての魅力も持ち合わせていた。日本の本草学書『本草和名』や『和漢三才図会』にも、唐辛子は薬草として分類されている。
唐辛子が庶民の口に入るようになるには、もう少し時間がかかる。江戸時代に入ってから、唐辛子は「南蛮胡椒」「蕃椒(ばんしょう)」などと呼ばれ、庶民の間でも徐々に定着していった。味噌汁や漬物に少量加えると風味が引き立つことが発見され、やがて、うどんやそばといった庶民の料理に欠かせない調味料としての地位を確立する。
やがて、七色唐辛子という日本独自のブレンドスパイスが登場する。七色唐辛子(七味唐辛子)は、江戸時代中期の1625年ごろに、江戸薬研堀の薬種商、中島徳右衛門により考案されたとされる。その名の通り、唐辛子を中心に山椒、麻の実、黒胡麻、白胡麻、陳皮、青海苔など七種類の素材を調合したもので、唐辛子が日本の味に見事に融合した証でもある。
思えば、コロンブスが胡椒と間違えた唐辛子が、五百年の時を経て日本で一つの「味の文化」として完成したことは、歴史の皮肉といえるかもしれない。
唐辛子はただの香辛料ではない。それは、食文化のグローバルな交差点に咲いた、文明交流の象徴である。スペインの征服欲、ポルトガルの布教活動、日本の適応力と創造性。それらすべてを内包して、唐辛子は今も七味の中で、赤々と燃え続けている。